3.1992年〜1996年

 女優としての神代弓子は、基本的には無表情だ。それは、彼女が表情で演技しようとするクサイ女優ではなく、その存在が女優であるということから来ている。しかし、常に無表情というわけではない。セックスの最中の彼女の表情は、他の誰よりも魅力的に見える。

 1992年の「宴」では、過去のレイプによる男性恐怖症に悩む女性を演じているが、こうした、硬い表情が一転する瞬間を演じさせたら、彼女の右に出る女優はいない。そして、その後に続く快楽の表情。それは、限りなく「おんな」であることを見せつける。

 「トライアングル・レズビアン4」でレズシーンを繰り広げる彼女は、だから、決して女性相手であっても男性役に回ることはない。それは彼女が責めていてもそうだ。底なし沼のような「おんな」だと思う人も多いだろう。彼女は蜜の壷であり、僕達は、そこに溺れたアリのようなものだ。それほど、彼女の「おんな」は、男の何かを確実に破壊する。そうまで「おんな」である女性は、現実生活では決して見ることが出来ない。「孔雀」で演じるのは、そんな「おんな」の典型的なケースだ。

 1993年の「告白あるいは対話」における、彼女のモノローグは、女性であることを、ひたすら訴え続けている。しかし、彼女の肉体が語る「おんな」は、それよりも雄弁に、男の欲望を挑発する。「レズ・ペンタグラム」のような、極端に作られた世界にあっても、彼女は、同じようにまるでドキュメントであるかのように振る舞うことが出来るのも、彼女が、言葉ではなく、存在、表情ではなく、色香で見せる女優だということ証明している。

 1994年には、CD-ROMオリジナル作品「ヴァーチャル未亡人」で、誘い殺す魔性の未亡人を演じ、アダルトCD-ROMの金字塔的作品となった。その後も、「アマゾネーター」(1995)「ジゴロ」(1995)とCD-ROM作品に出演し、成功を収めるのだが、それも、そもそもの存在自体がヴァーチャルである彼女にとっては至極当然の事だ。インタラクティブなメディアでなくとも、常に彼女と向き合う男は、彼女の行動に、声に、身体に、インタラクティヴに反応し、彼女との一対一の関係を築く。だから、「アマゾネーター」のビデオ版「美肉挌闘」でも、「ジゴロ」のビデオ版「女の昇天方教えます」でも、彼女は、常に、僕達の目の前で、僕達をインタラクティヴに操作する。


 存在その物が「おんな」なのだから、僕達は、これからも、彼女がいれば生きていける。そう思わされている。それが分かっていても、やはり彼女を見ると、欲望が身体中を駆けめぐることを止めることが出来ない。

 彼女はどこに行くのだろうか?