「データ」が「豪華」
であるということに潜む罠。

TEXT by 青木修

写真心中

発売元:光文社
価格:2200円(税抜き)
MAC/WIN

 荒木経惟のファンなら、オリジナルはともかく、昨年(96年)夏に光文社から一冊本として復刻された「アラキグラフ」は持っていると思う。

とは限らないか。まあでも、持ってないならないで、大きめの書店に行けば大抵置いてあるし、この一文を目に留めたのも何かの縁と、買いに走ってもいいだろう。

 さて「写真心中」だが、その「アラキグラフ」を「軽井沢心中」メインで再構成したCD-ROMが付いた、荒木経惟撮り下ろしの写真集だ。自販機本のようないかにも安っぽい線を狙った表紙ではCD-ROMはあくまでも「特別付録」だが、全体のバランスから考えると、「アラキグラフ」をCD-ROMで見ることができる、といった点の方がメインに思える内容である(撮り下ろしの「写真心中」も「軽井沢心中」の延長線上にある作品ではあるし)。テキストが省略されている部分もあれば(例えばこまどり姉妹へのインタビュー「人生対談」は、インタビューの録音の一部がそのまま収録されているだけである)、構成も書籍版とは異なるけれども、じっさい「アラキグラフ」のほとんどの部分を「写真心中」のCD-ROMで見ることができる(全部ではない−念のため)。だから、間省いて結論から先にいってしまうと、「アラキグラフ」を未見で、資料的価値を求めないなら、「写真心中」を先に買ってもいいと思う。構成は書籍版に比べてゴチャゴチャした感じはするが、却って猥雑な感じがするのが気持ちよくもあるし、値段も百円安いし。

 ところで、CD-ROMに於ける「豪華」ってなんだろうかと、この「写真心中」を見て考えた。

 じっさいCD-ROMの宣伝文句やレビューには、結構「豪華」を謳うものが多いのである。で、その辺がちょっと気になってはいた。

 例えば「ハリウッドの俳優、スタッフなどを起用した豪華な内容」というCD-ROMが時々ある。

 むろん、作り手、売り手にとってみれば、宣伝文句としての「ハリウッド」は魅力的なものの一つだ。なんとなく安心感もあるし、「豪華」感を醸し出すことができる。で、我々紹介文の書き手も、「豪華」であることを書いておけば簡単だし、取り敢えずは仕事になる。何故なら、作り手、受け手が提示する「豪華」は、大抵の場合、数で数えられるような類のものだからだ。

 あるいは金額に換算してイメージできるものを含めて考えてもいい。そういう類のものは、いってしまえば「データ」だから、横流しに流通させるだけで済んでしまったりする。読む方もわかりやすい。

だから、この「写真心中」のCD-ROMの紹介も、

『有島武郎「惜しみなく愛は奪う」をモチーフにした「軽井沢心中」や「温泉ロマンス」は、ピアニカ奏者の安田芙充央のノスタルジックな音楽と前衛文学のさとう三千魚のテキストで彩られていたり、ねじめ正一が参加した「過激写」、キャバレー金時を写した「東京写真」、1985年の新宿歌舞伎町をルポする「性器末のアヴァンギャルドたち」、こまどり姉妹が貧乏話を語る「人生対談」などなど』

とか、

『末井昭自身が撮影しサックスのフリージャズで音楽を付けた、荒木経惟がモデルにまたがり、風呂で毛を剃り、煽りに煽る撮影風景のムービーも見ることができる』

とかいった、「データ」の物量感で、「豪華」な内容だという方向から攻めるのはた易いのである。

(註−括弧内はCD-ROM Fan誌にわたしが書いた「写真心中」の紹介文より抜粋。ちなみに最初の括弧内で、安田芙充央の音楽と並べて「前衛文学のさとう三千魚のテキストで彩られていたり」と書き、さとう三千魚のテキストがさもこのCD-ROMで付け加えられたもののように筆を滑らせているが、いうまでもなく「アラキグラフ」のオリジナルで既に起用されているものである。この場を借りて反省)

 で、こうした拝「データ」主義による実はとんでもない誤解が、じわじわと広がりつつある状況がCD-ROMにはあると思う。まだるっこしいから一例を挙げるが、例えば「スティーブン・スピルバーグのディレクターズ・チェア」だ。スピルバーグが監修し、タランティーノが出演し云々という話は、「データ」としては確かに「豪華」である。しかし、その「データ」が「豪華」であるということが、過剰なまでの幻想にまぶされつつ流通しているのが、現在のCD-ROMを巡る状況であるような気がするのだ。

 じっさい、「ディレクターズ・チェア」は、CD-ROM3枚でこんなもんかい、というくらい、中味は貧弱である。ついでにいうと、「データ」が豪華な分だけ、「ディレクターズ・チェア」の書き割りのセコさやほとんど内容が判別できない暗い絵のムービーやおためごかしのスタジオ作業などは、より一層貧弱に見える。

 本当は見えるはずなんだけど、現在のところ作り手売り手も、あるいはメディアも、それを見せまいとしている。むろん一方で、CD-ROMはまだ黎明期を脱していないから、ネガティブに受け取られ勝ちな論評は避けようという意見もあるし、わたしもそう思わないでもない。

 しかし、「データ」だけを有難がって豪華だと思い込むのは、深夜のTVショッピングじゃないんだから、もういい加減貧乏臭い話だろう。さっきから「ハリウッド」をキーワードにしているが、別に「ハリウッド」ばかりが憎いわけではなく、例えば俗にいうコレクターズ・アイテムものだってそうだ。マニアの物欲をそそるのは構わないが、年中福袋を作って売るような商売はいかにも貧乏臭いし、それを有難がるのもやはり貧乏臭い。その貧乏臭さに気が付き、辟易する瞬間はきっと訪れる。そのとき恐らく、CD-ROMはまだ黎明期だからといういい訳は、通用しなくなるのである。

 しかしわたしは一体何をこんなに力んでいるのか。要するに、CD-ROMだからといって何か新しいものへの期待だけで語る段階は、もうとっくに終わったのではないかということだ。そして、新しいことを目指すのはむろん歓迎だが、新しいことの未熟さを、そして未熟さ故のつまらなさを、「豪華」でごまかし続けるのは如何なものだろうか、ということを、「写真心中」の、じっさい「豪華」ではあるけれども実にさりげない風を装ったCD-ROMを見て、改めて思ったということである。まあ、「アラキグラフ」をそのまま素直に料理しただけだから、面白いのは当り前なのではあるが。


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