発売元:メディアネットワーク
価格:9,800円(税抜き)
MAC/WIN
主人公ロジャー・サムズの母親は、ロジャーを産んですぐに羊水塞栓症で死ぬ。酒場を経営していた父親はロジャーを修道院系の施設に預け、ロジャーは孤児となる。施設ではシスターにいじめられ、学校でも級友のいじめに遭う。昆虫学者を志し、ようやく得た職場の研究室では雑用ばかりで、自分でこつこつ研究した成果もまったく認められない。
一方このゲームの舞台となる建物の大家エディ・バティートは、最愛の妻を亡くし、ボクシング・プロモーターの事業に失敗し、借金を背負い、唯一の拠り所だったバーも地域再開発計画で立ち退きを余儀なくされている。
という、この、どちらもいやな思い出しかない2つの暗い人生が、「bad mojo」の物語の背景だ。
さて、主人公ロジャーは、いやな思い出ばかりの人生から2つの方法で逃げようとしている。パラノイア(ロジャーの作業場にある奇妙なコラージュと「すべての目は私に注がれている」というメモから類推できる)と犯罪(100万ドルの横領もしくは詐欺もしくは窃盗)である。
で、その逃げようとする主人公を、ある「存在」が、ある「真実」に導くために、ゴキブリの姿に変えるというのがゲームの、つまりは物語の発端。で、いざゲームをクリアして、運よく人間に回帰し、さらに4つある結末のうち運良くハッピーエンドを迎えることができると、最初は仲の悪かったエディとロジャーがある一点で結ばれ、盗んだ100万ドルでもってメキシコに逃亡し、明るい海岸で仲良くトロピカルドリンクを飲っているというシーンで幕を閉じる。
ゲームを先へと進ませる、プレイヤーに物語を勝手に構築させる力はなかなかのものだし、エンディングへ向かう緊迫感の演出なんかは結構うまいのだが、結末のあまりの屈託のなさに、それまでの「いやな思い出」はどうなったんだろうと、ふと思う。ゴキブリから人間への回帰はそれなりの試練だけれども、ロジャーを(狂気と犯罪の2つの)逃避に向かわせ、エディを諦念に追い込んだ人生の不幸が、それくらいで払拭されるものだろうか。大体、メキシコに逃げ果せた今も犯罪という不幸を背負ったままなのだし(完全犯罪が破綻しかかっていることは、ゲーム中に示唆されている)、パラノイアについては仄めかしがあるだけでなんの説明もされず仕舞いだ。
だから、メキシコに逃げた2人の屈託のなさは、なんだかとって付けたような唐突な終わり方で、どうも真実味や余韻に欠けるように感じる。完全なハッピーエンドを目指したのなら、それまでの「いやな思い出」が吹き飛ぶようなエピソードがもう少し欲しかったと思う(舞台である建物が爆発するくらいでは足りない)。むろん、不幸な人生が不幸のまま終わる結末もあるから、その辺いわゆるマルチエンディング、インタラクティブ・ムービーというやつの難しさなのだと思うが、全体を通しての物語の破綻の多さには、少なからず不満を覚える。
と、ここまで書いておいてなんだけど、わたしはゲームをゲームとして楽しむことが(どちらかというと)苦手だったりするので、わざわざ深読みして物語をずるずると引っぱり出して、そのアラを探しているのかもしれない。じっさい、謎解きとかパズルとか、そういう部分は他のアドベンチャーゲームと比べてもよくできているし、それなりに楽しいから、アドベンチャー好きには充実した時間を提供してくれるだろうと無責任に断言するに吝かではないのである。
しかし「bad mojo」は、そういうわたしのような人間を深読みに誘うフェロモンを放っているので、それに釣られてついつい勝手に物語を読み取って勝手に不満を覚えたりするわけだけれども、しかし、そういう不満を与えないくらいに物語がよくできていると、この手のゲームもテクノロジーとともに風化することなく残って行くと思う。ほんとに。