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作品、あるいは、作品を通して伝えたい事柄に対して“思い入れ”が過ぎると、ときに悲惨な結果を招くこともある。この「ポポル・マヤ」が、原作者である大沢直行氏の思い入れの産物かどうかは判らない。オープニングの「ネオ・マヤ宣言」と、別紙で論じられた「ポポル・マヤの法則」を読むと、確かにそのようにも感じられるのだが、あまりに尤もらしい語句を頻発し、独自の意味を持たせて発展させるというそのカルト論法は、ひょっとすると何か痛烈なパロディなのではないかとも思わせる。
もしも、これが思い入れの産物なら、確かに結果は悲惨かもしれない。“水・土・木・風”と、古代マヤの世界観に従って、4つのステージを作るという発想はごく自然な成り行きだろう。しかしそこで、“移動〜対象キャラ発見〜アイテム獲得→条件を満たしステージ移動権を獲得”の繰り返しという、単調だがしっかりゲーム的な行動が要求されながら、最終的なカタルシスはないと知りながら、延々「ポポル・マヤ」をプレイする人間が、一体どれだけいるというのか。
古代マヤの思想や哲学を、仮想の世界観やプレイ方法、雰囲気などに反映させることは出来る。しかし“フリーワード入力→的中する唯一のワードを探す”という、あまりにもつかみどころのない行動を何度繰り返させたところで、各プレイヤーを、同一の思想や哲学に辿り着かせることなど出来るわけはないのだ。大沢氏は「ポポル・マヤの法則」で、「ポポル・マヤ」というタイトルを「宇宙原理体感装置」と呼んでいるが、当然どういう体感が得られるのかについては触れていない。
そりゃそうである。「ヴァーチャル・リアリティの“あらかじめ道筋と結論が用意されたリアル”を否定」し、同時に「『ポポル・マヤ』はインコンピュータブル・リアル=非計算的リアル、予測不能なリアルを目指す」と書いているんだからね。でも、そもそもヴァーチャル・リアリティは“リアル”を求めるための技術ではなく、共通認識という道筋を辿ることで、多くの人が同じ結論(体感)を得るためのもの。筋道も結論もイヤなら、何も余計なことはしなければいいのだ。予測不能なリアルなら、いつも直面しているんだから。
「ポポル・マヤ」をプレイすることで体感できるものが完全に予想不可能なら、それは「ポポル・マヤ」をプレイしてもしなくても、感じるときには感じるし、感じないときは感じないってコトだよね。それなら「ポポル・マヤ」で体感するものはない、ということになってしまう。ないと分かっていながら、6900円払うヒトはいないよね、普通。
少なくともワタシは「ポポル・マヤ」の、ヘンテコな生き物とのコミュニケーションの中に、何らかの共通した意味を見いだすための手掛かりは発見していない。生き物がそこにいる理由は制作側の意図で、その言葉でアイテムをもらえたのは、たまたま乱数によってシャッフルされたカードから、ジョーカーを引いたとしか思えなかった。ならば、その“コミュニケーションでアイテムを獲得する”という行為が、面クリア感を煽るためのゲーム要素以外の何だというのか。ゲームとして不完全なゲーム作品に、“輪廻転生”という思想を持ち出して来られても、何やら言い訳のように感じるばかりではないか。
しかし、言葉でゴハンを食べている身としては、言い訳を並べることで、わざわざ自分たちが市場に出す商品の存在理由を無にする、などというミステイクはないと思いたい。制作し、発売されるまでに何人ものヒトが関わっていて、それに気づかないとしたら、ヒトは言葉になど、これっぽっちの重要性も感じていないというコトだ。せっせと言葉を並び替えようが、ああああああああああああああああああああああああああああああああと同じ文字で埋めようが、大した違いなどないということになってしまう。それはあまりに虚しいぞ。
うーん、もしかして、書いてる本人が「それはあまりに虚しいぞ」と書くのと「あああああああああああ」と書くコトの違いを認識しているコトが重要で、「あああああああああああ」って書こうが「それはあまりに虚しいぞ」って書こうが、誰かが「それはサイアクだったね、ハハハ」と読んでしまうことはある……というのが「ポポル・マヤ」でワタシが体感した宇宙原理かも? いや〜ん。